じーちゃん、おつかれさま。

今朝、私の母方の父(私の祖父)が78歳の生涯を閉じました。


一年前、咳き込みなどの症状が出だした時には既に手術などはできない状態まで進行していたのですが、そこで半年と言われてから、随分長い時間、一緒にいることができました。


私達はすっかりじじばばっ子で、私達姉弟が自営業の両親の仕事中など、甘えたい盛りの幼少期から、自分の田舎と私の実家を行ったり来たりして面倒を見てくれました。


成長してからも、私はずっとくっついて、育休中も一緒に毎日のように私の車で買い物や遊びに出かけたり、曾孫(私の息子)も可愛がってもらい、息子もとてもなついてました。




性根から心優しい人で、怒鳴ったり手を上げたりするのは見たことがなく、
自分の病気を宣告された時も、落ち込みながらも決して自棄になったりせず、相変わらず周りの人たちに穏やかに接し、静かに暮らす人でした。


ちょっと間の抜けたところがあり、それが愛嬌で、よく家族に笑われて、でも本人も皆が笑っているのを見て、嬉しそうにしている人でした。


大判焼きとどら焼きが好きで、よく買ってきたり、作って振舞ってくれて、
でも最期のほうは食べれなくなってきても、家族の為に買ってきてくれたり、


タバコとコーヒーが好きだったけど、最期のほうは嗜めなくなって、


じっとしていられない性分で、最期のほうまで原付に乗っていたり、私の車で出かけては家族のおかずを買ってくれたり、


宝くじが好きで、ばーちゃんに怒られるので私が言付かってたくさん枚数を買ってきたり、
いつも末尾しか当らないのに、
「当ったら親戚みんなに均等に配るんや」と言ってたり、


歯に衣着せぬ言い方をするばーちゃんにペンペンに言われても、
「生まれ変わってもまた夫婦になる」と言ったり、


ほんとに、ほんとに、
生まれ変わらんでも、ずっとそばにいて欲しかった人でした。






生まれは紆余曲折ありつつ、私も本人やばーちゃんや母から聞いた話だけしか知らないけど、
戦後の育ちのなか、大変だったこともあるだろうに、
じーちゃんは幸せそうな顔で話してくれていました。



最期は東洋医学漢方薬で治療を続けていましたが、足が浮腫んで立ち上がれなくても、
しんどくて横たわっていても、
「なんともない、どっこも悪くないでな」と穏やかな顔でいて、
最期は自分の生家で、ばーちゃんと娘に囲まれて、
ほんとに眠るように、
さっきまでぐーぐー息していたのに、次に声をかけたら息してるのを忘れてたみたい、っていうぐらい安らかに迎えたそうです。


「俺は得な人間や、幸せな人間や」と言いつづけていると、本当にそうなるのかな、
と思ってしまうようでした。




孫の結婚式にも3回出て、曾孫も5人見て、
まだまだ大所帯になるであろう様を見ていて欲しかったけど、
もう休ませてあげなくちゃ、と思います。


人には優しく、自分にも好きな様に生きて、
焼きそばや白米にソースをどばどばかけて周りから大顰蹙を買って、
たばこを隠れて吸って布団に隠し、「火事出すやろ!」「中学生か!」「隠れなくていいでちゃんと処理して!!」と大顰蹙を買って、
好きなコーヒーを飲みに行ったコメダ珈琲店のおしぼりが「ちょっと洒落てたから」と自慢げに持って帰ってきて、「それは窃盗です!」「返しておいで!」「いい年して!!」とこれまた大顰蹙を買って、すごすご返しにいったりするようなじーちゃんでしたが、


でも何故だか全然憎めなくて、かわいらしくて、大好きでした。






そんなかわいらしいじーちゃんの葬儀は、親戚が葬儀屋に勤めていたので、
顔も髪もきれいに「おくりびと」してもらって、
通夜の控え室がテレビ・ジャグジー付き風呂完備の快適すぎる部屋だったため、親戚縁者全員23時に就寝してしまったりw、
友引だったので出棺の時に白い鳩を飛ばしたり(私も初めて聞いたけど)、
棺おけの蓋に寄せ書きされたり、
お供えのごはんにソースをかけて棺に入れてあげたり、
私の息子はじめ顔を叩きまくったり、
と、みんなやりたい放題でした。




ちなみに寄せ書きにばーちゃんは、
「来世も夫婦で」のあとに、「?」をつけようとしてみんなに止められ、「・・・」に修正していました。
母は、「来世でもお父さんになってください」と書いてあり、それを見て、また泣いてしまいました。




人に恵まれた、いいじーちゃんでした。
また会える日を信じて、それまではどうぞ安らかに休んでください。
ありがとう、じーちゃん!